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秩父の歴史旅 山村編

   秩父地方は埼玉県の北西部に位置し、盆地と山地で構成される地形は平野が優越する埼玉の中で特異だ。また歴史と伝統文化も豊かで特色がある。今回、秩父のとくに山村をその歴史とともに紹介する。

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*緑の線は、中山道と甲州街道をつなぐ街道「秩父往還」

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   奥秩父の甲武信ヶ岳に源流をもつ荒川は、秩父山地の谷を刻む多くの川を合わせて秩父盆地を東に流れ、幾層もの河岸段丘を作っている。秩父市街はこの低位層の河岸段丘上にある。川はここから景勝地長瀞を経て関東平野に入る。平野に出た川は、寄居を扇頂、熊谷付近を扇端とする扇状地を作り、東京湾へと南下する。

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   秩父地方は山に囲まれた盆地地形をなしている。山は西に行くほど標高が高くなり、長野、山梨の県境にある甲武信ヶ岳は2474m、三宝山は2483mに達する。ちなみに秩父市街から近く秩父の象徴として聳える武甲山は1300mでこれらの山より1000m余り低い。 山地に囲まれているため秩父には峠が多い。徒歩や馬で移動していた時代には、人や物は峠を越えて出入りした。標高の高い奥秩父の峠は高く険しく、甲州に続く雁坂峠、信州に抜ける十文字峠は海抜2000mを超える。いずれも秩父側は険しく、峠を越えると比較的なだらかになる。
   上州との境にも峠が多く、峠を越えると利根川支流の神流川筋に出る。矢久峠、土坂峠は神流川を遡って佐久に抜ける道でもあり、秩父事件ゆかりの峠である。秩父往還が熊谷方面に向かう釜伏峠、小川町から川越方面につながる粥新田峠や定峰峠も人やモノが移動する重要な峠だった。

鉢形城と落人の集落

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   戦国時代、上杉、武田、北条が秩父をめぐって勢力拡大を競った。上杉、北条は東から、武田信玄は甲斐から山を越えて秩父に侵入した。上杉が後退した後、小田原の北条氏が関東一円を支配した。秩父に隣接した寄居にある鉢形城はその重要な支城で、戦国末期には北条氏邦が城主として地域一帯を治めていた。
   この鉢形城は秩父と深い関係があった。秩父に本拠地をおく領主、秩父氏は鉢形城の三の丸(曲輪)を任され、秩父氏の頭領を中心とした軍団は秩父衆と呼ばれていた。秀吉の小田原攻めのとき、支城である鉢形城も秀吉の家臣、前田利家、真田昌幸などにより攻撃されて陥落。この時、多くの家臣と兵士が秩父に逃れ、秩父の山村には今もこの子孫が住んでいる。落人伝説をもつ村は各地にあるが、秩父の山村もその一つだ。これから紹介する石間地区の沢戸集落にはその子孫が今でも住み、奥秩父のもっとも西にある栃本も落人の集落といわれている。

秩父事件と山村

写真 映画チラシ 決起の絵 写真

   秩父には平地が少なく農業集落は山間部に多く分布している。ここでは傾斜地に石垣を築いて家々が建ち、斜面の畑を耕す人々の暮らしがある。畑ではかつて桑や麦、蕎麦、粟、豆類、こんにゃくなどが植えられていた。また養蚕が盛んだった頃には山間地に養蚕農家が多く、谷ごとに特徴ある伝統芸能が継承されていた。しかし、養蚕の衰退と高度経済成長の始まりとともに人口が急速に減少し、建物のみを残して消えようとしている集落も少なくない。
   明治17年の秩父事件はこの山村の人々を中心に闘われた。4000人ともいわれる数の農民が決起し薩長政府に対峙した秩父困民党の乱である。秩父市街を解放区とした闘いもわずか数日でつぶされ弾圧されたが、近代日本における民衆の反権力の闘争が秩父で起こり、蜂起した人たちに山間部の農民が多かったことを知ると、秩父の山をみる目も違ってくるに違いない。

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沢戸集落

   最初に訪れる山村は石間川中流域の沢戸集落である。上の地図にみるように、吉田町から谷あいを流れる石間川を遡ると、沢のとば口から沢口、漆木、中郷、沢戸、半納の集落が続く。傾斜地にへばりつくように家々が建つ秩父に典型的な山村である。
   かつて、石間川をさかのぼって車を走らせていた時、立ちはだかる山に家々が聳えている光景が眼前に現れ圧倒された。沢戸集落である。この集落では戦後しばらく山の斜面で焼畑農業が営まれていた。養蚕も盛んで、1960年代には戸数50、250人以上の人たちが暮らしていた。しかし2016年の人口調査ではわずかに46人、5分の1以下に減っている。しかもその多くが65歳以上の高齢者。このため耕地は年々縮小し次第に林に戻っている。
   鉢形城陥落で逃れた家臣と兵士の子孫が沢戸にも暮らしている。集落には刀など当時の遺品が多く残っていたというが、戦時中の供出と戦後の骨董商の出入りで今はほとんどないらしい。

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急傾斜に建つ沢戸集落の家々

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半納から望む沢戸集落

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   沢戸集落の入口に建つ案内板には次のように書かれている。
「当地区は急傾斜地で農作業に機械が使えず、苦労して作った作物は収穫が大変少ない。住民は超高齢者となり、離農者が増え、畑は荒廃の一途を辿っている。これを憂えた村人が将来の桃源郷を夢見て中山間農業組合を立ち上げ、この地に桜、桃の花木やかえで等を植栽中である。
「一人去り、二人減りゆくこの里に、花木を植えて未来に夢を」 袈裟雄
 平成二十三年春
近年、石間地区の人たちが、自分たちのいわば「天空の郷」を紹介すべく、希望者に「村案内」をはじめた。
 「天空だんべい石間協議会」 http://isama-net.com

太田部 楢尾集落

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ムツさん宅の案内板                                                  小林ムツさん  

   石間の沢戸集落から車で山道をさらに30分ほど上り、太田部峠を越えると太田部の楢尾集落に至る。道端の板に「←この上100米ムツさん宅 楢尾」と記されていた。見逃すと通り過ぎてしまう。
2002年、NHKのBSドキュメンタリー番組「花のあとさき」でこの集落のムツばあさんが紹介された。山村は人が減り高齢化して集落が次々に消えているが、ムツばあさんは 老いて耕せなくなった土地に桜やカエデなどの木を植え続けてきた。だれもいなくなってもたまたまここを訪れる人が楽しめる山に戻したいというのがムツさんの願いだった。
   人口は減少していたが2002年の時点で楢尾には7人以上の人たちが住んでいた。この10年あまりの間にここを5回ほど訪れているが、2015年には85歳になられた新井さんご夫妻だけになり、こんにゃくとわずかに菜園で自家用の野菜を栽培していた。このお二人も2017年に相次いで亡くなり、楢尾集落から人が消え、集落の歴史に幕が閉じられた。

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   ムツさんが住んでいた家。養蚕が盛んだったころの建物で、2階で蚕が飼われていた。蚕は高温多湿を嫌うため窓が広くとられている。ムツさんが亡くなったあと、しばらく記念する資料や写真が窓際に並べられていた。しかし集落から人が消えた今は片付けられている。

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楢尾から太田部の他の集落を望む。谷が2つの集落を分けているため、 車は斜面を切った道をぐるりと回らなければならず、近くに見えて遠い。

   この楢尾を含む太田部にはかつて400人以上の人が住んでいた。養蚕が盛んで、耕地の傾斜が強いところで焼畑がおこなわれていた。しかし今では人口が15人ほどになり、もちろん小学校は廃校に、郷土芸能の獅子舞も歴史を刻むお面が倉庫にしまわれたままになっている。

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太田部には獅子舞は元禄に遡る。現在も獅子頭が保存されているが、昭和20年代に 舞われたのが最後で、古老にとっても古い記憶の中にある。 2000年に廃校になった太田部の小学校は吉田町の小学校の分校だった。

秩父山村の農業と生活史

   〇明治初めころの太田部の農産物(明治8年の『産物下調帳』)
繭200貫、屑繭33貫、生糸9貫150目、真綿200目、屑糸900目、絹8疋、 太織2疋、厚紙25俵、紙20俵、・葉煙草25貫、大麦241石、小麦40石、大豆29石、小豆11石、粟45石、とうもろこし46石、 蕎麦25石、ダイコン2598貫、菜115貫、馬鈴薯49荷、蒟蒻3貫、牛蒡5貫、味噌110樽、 橡2石、串柿418連、栗5石、鶏18羽、鶏卵180、 その他、竹製品、茶、薪炭類、

   〇江戸期の生業(『新編武蔵風土記稿12巻』)
《太田部(戸数71 )》
山深い山村であり耕地の傾斜が強いところで焼畑。
農作業の合間に男は山稼ぎ、女は絹を織り、紙漉き
《石間(戸数160 )》
傾斜地で焼畑。農業の間に男は山稼ぎ、女は絹を織り、紙漉き

   〇石間地区沢戸における農地の利用(戦後10年ほどまで)
・焼畑:夏に草を刈り、火を入れる。
   1年目は蕎麦、2年目は粟、その後に桑や杉を植える。
・畑 :麦を植え、裏作にジャガイモ、小豆、サツマイモ、トウモロコシ

   〇栃本(戦後まで)
・焼畑:6月に木と草を刈る。それが乾いた7月初めから半ばころまでに焼く。
   1年目:蕎麦を作る。10月に収穫、
   2年目:粟・稗、赤カブ
   3年目:大豆、小豆、赤カブ、
   4年目:エゴマ、
その後10年ほど放って置く ・畑 :麦, 屋敷の周辺では野菜を作る。

栃本

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   栃本は秩父のもっとも西にある集落である。中仙道と甲州街道を結ぶ秩父往還が通り、江戸時代には関所がおかれていた。しかしバイパスができた今日では地元関係者以外の車はほとんど通らない。深い谷を望む山の斜面にあり、秩父の山村に多い落人集落の一つである。
   戦後しばらく焼畑が行われていた。焼畑を止めた後に放棄されスギなどを植林することなかったため、カエデの木が生え山は落葉広葉樹の美しい林になっている。

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旧街道からの景観には目を見張る。季節によっては色とりどり豊かな美しい山村の風景だ。だが機械が入らない畑での仕事はきつく、高齢化とともに放棄地が増えてきている。

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谷に向かって建つ栃本の家々。左は2019年、右は1940年代末(岩波写真文庫「川」) 建物は変わったが風景はほとんど変わっていない。

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   旧上中尾小学校。敷地内の碑文には次のように記されている。「明治5年学制発布され大滝小学校開設。その後、秩父往還沿線の石水寺に分教場が作られ、明治42年 地域の先人達が資財を投じここに校舎を建設した。・・・ 住民関係者の努力は弛みなく続けられ一時253名を数え地域文化の中核として幾多人材を育んだ栄光の学び舎は児童数25名となり大滝小学校に合併 昭和56年3月ついにその幕を閉ず。まことに感無量なるものあり。」

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   栃本関所は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還を行き来する人を調べるために作られた。関所は甲斐の武田氏が秩父に進出した時に始まり、徳川時代に入り鉄砲出女を取り締まる目的で幕末まで続いた。この関所だけでは手薄なため、1643年に秩父方面に向かって最初の集落である麻生に加番所が設けられた。

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   秩父往還を甲州方面に進むと栃本で信州路が分岐する。東は秩父、西は雁坂峠を経て甲州、北は山道を信州に向かう三叉路があり、ここに道標が置かれている。「右は信州道、左は川又を経て・・」、あとが読めないが、甲州へと彫られていたと思われる。道標の近くに宿とおぼしき家があった。

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ダムの建設で消えた二瀬村の集落 (岩波写真文庫「川」 1950年)

   二瀬ダムは、荒川の治水をおもな目的に1952年に建設が始まり61年に完成した。ダムの高さは95mあり、二瀬村はダム湖(秩父湖)の湖底に沈んだ。

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上:麻生集落から秩父湖を、右:三峰神社に登る車道から麻生集落を望む

   この付近では秩父往還は山の中腹を通っており、江戸時代に加番所が置かれていた麻生集落は、ダムができるまで山間の谷から聳える天空の集落だったことが想像される。

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