ロゴ

マルヴダシト村の変遷のバー

・ポレノウ村再訪  ・マルヴダシト地方の村の変遷  ・マルヴダシト地方のオアシス
・遊牧民  ・マルヴダシト地方のオアシス農業社会   ・イランの伝統農具と生活用具
・イランの村のガルエの生活 ―大野盛雄氏の1964年の写真から―

マルヴダシト地方の村の変遷-オアシスの集落の変遷と住居-

ペルシャ語訳へのジャンプボタン

   マルヴダシト地方には遊牧民が定住した村が多い。羊やヤギを追って暮らす遊牧生活をやめて農業に替わった人々の村である。1970年代前半に農村調査をおこなったポレノウ村とヘイラーバード村はともに2、3世代前まで遊牧生活を送っていた人たちの村であリ、私が村に滞在していたときには遊牧民時代のことを語れる人がまだ少なからずいた。  19世紀のマルヴダシト地方には遊牧民の放牧地が広範に存在していた。この地方について記された地誌をみると、1870年頃には、現在は農業地帯として開けているところに複数の遊牧民部族の宿営地があった。もちろん農業が営まれたオアシスもあったが、その規模はかなり小さかった。当時はまだ遊牧民部族がこの地に勢力を張り、農耕民の村はさまざまに圧力を受けていた。  20世紀に入ると、近代化を目指す政府による中央集権化が進められ、この政策に抵抗する遊牧民部族に対し軍事的圧力が強められた。また同時に遊牧民の定住化を促す政策がとられ、定住するものが徐々に増えた。 ここでは、遊牧民の定住で生まれた村の集落とこの集落に住む農民の住宅が、社会変動の過程でどのような変化をみせてきたのか、ヘイラーバード村の事例を中心に辿ることにする。

ラフマト山麓の住居址(航空写真 1957年撮影)

ラフマト山麓の住居址
(航空写真 1957年撮影)

山麓の住居址(1975年撮影) 廃墟になって以降、の画像 山麓の住居址 近景

山麓の住居址(1974年撮影) 廃墟になって以降、 村人が建築等で運び出したため石が少なくなっている

山麓の住居址 近景

1 半定住からガルエへ

 

   ヘイラーバード村の北側に伸びるラフマト山の山麓にはいくつかの住居址がある。これは1957年の航空写真を仔細に読んでいるうちに偶然にみつかったものである。村の古老からの大野盛雄氏による聞き取りで、ここに住んでいたのがヘイラーバード村の住民の2,3世代前であり、以前は遊牧をやっていたことがわかった。また、ともに調査をおこなった南里浩子氏によると、この住居址は氏族を単位とした4つの集落からなり、個々の住居は石を積み上げその上を壁土で固め、屋根は葦で葺いてあった。20世紀初頭まで住民は半定住の遊牧生活を送っており、この集落は冬季の居住地であった。夏季にはここから家畜を追って平地に降り、黒テントを張って移動しながら放牧していた。

遊牧民の黒テント

遊牧民の黒テント

羊とヤギを移動させる遊牧民の画像

ヤギと羊を移動させている遊牧民

   マルヴダシト地方の広大な土地は、20世紀初頭には、都市に居住する官僚や軍人、商人など中央や地方の名士層によって所有されていた。1000ヘクタール以上の土地をもつ大土地所有者が多く、家畜を追ってこの地方を移動また宿営地とする一部の遊牧民がこの農場の労働者として定住した。当時、大土地所有者はカナートなど水利開発を進めて農場を拡大していたが、労働力が極端に不足しこれを遊牧からリクルートしていた。
    山麓に続く広大な土地の所有者であったサドル・ラザビーもカナートに投資して農地を拡大していた人の一人である。ラフマト山の山麓の住居址に居住し半定住の遊牧生活をしていた人たちは、地主の誘いに答える形で農場の労働力として次第に取り込まれていった。しかし、半遊牧半定住の状態では農場を経営する上で管理が難しい。地主は「ガルエ」と呼ばれる城砦のような高い土塀で囲った居住区を建設し、半定住民をここに移住させようとした。
   地主制の時代には農民の住む住居は地主が建設した。ガルエの形は地方で違いがみられるが、マルヴダシト地方に一般的な形は、四方を高い壁で囲い、四隅に見張台のような塔のある城砦もどき形をしたものが多い。頑丈な扉は朝開かれ、夕方には閉じられて外部から遮断される。内部には地主の館、倉庫などとともに農民の住居が狭い空間に密集して配置されていた。ガルエは地主農場の「飯場」のようなものであったといってよい。

ガルエ(1960年代末に大野盛雄撮影) 手前は地主の家畜小屋

ガルエ(1960年代末に大野盛雄撮影)
手前は地主の家畜小屋

ガルエの出入口(大野盛雄撮影)の画像 ガルエの出入口の扉の画像

ガルエの出入口(大野盛雄撮影)

ガルエの出入口の扉

ガルエ(1957年の航空写真) ヘイラーバード村航空写真画像

ガルエ(1957年の航空写真)
ヘイラーバード村 には2つのガルエがあった。中央下は家畜囲い。

   地主は山麓に住む半農半遊牧民をこのガルエに移住させようとした。だが、居住環境が悪く、しかも狭くて家畜を飼うスペースがなかったため移住を嫌った。放牧をしていたことで多くの家畜を飼っていたが、移住すればこれを処分しなければならなかった。移住がなかなか進まないのに業を煮やした地主は、ジャンダルメリー(辺境警察)を使って集落は焼き払いガルエに強制的に移住させた。1920年代末のことである。
   ガルエが城砦のような構造をしている理由については、遊牧民の略奪を防ぐためと説明されることが多い。しかし当時は人々の流動性が高く、ガルエに囲って農民を管理しようとした地主側の動機も大きかったと考えられる。地主はガルエと暴力装置としてのジャンダルメリーに守られ強い権限を行使していた。

ガルエの内部(1966年)農民の住居が狭い空間に密集している(大野盛雄撮影)の画像 ガルエの内部(1966年)農民の住居が狭い空間に密集している(大野盛雄撮影)の画像

ガルエの内部(1966年)農民の住居が狭い空間に密集している(大野盛雄撮影)

2   1970年代の農民の住居と集落

   1962年、近代化を目指す国王によって農地改革が宣言された。この改革で農民は耕作地のすべて、またその一部を手にすることになる。改革のもつもう一つの意義は、地主を村から退去させ農民の自由が保証されたことだ。つまり、農地改革は農民解放としての性格も合わせもっていた。自由になった農民は狭いガルエ内での生活を嫌い、次第に住居をその外に移した。住居としてより広い空間を手に入れ、ガルエの中では飼えなかった多くの家畜を飼うスペースも確保した。

前庭をもつ農家の画像

前庭をもつ農家
広い前庭は土塀で囲まれている。 手前に出入口があるが、その向かいの入り口の小さな建物は 家畜小屋である。庭のほぼ中央に家畜の餌場がある

   農家は、部屋数が少なく間取りはかなり単純であった。長方形の箱が縦に2つ3つ並んだような住居には、それぞれに1つの入り口が開いているだけである。部屋数が少ないため各部屋は複数の用途で使われた。押入れはなく部屋の隅には布団が積まれ、わずかな衣類がかかっていた。女性は遊牧時代の伝統であるジュウタンを織ったが、作業用の部屋が必ずしも独立せず戸外で作業することも多かった。

前庭でのジュウタン織り作業の画像

前庭でのジュウタン織り作業

   住居には土塀で囲まれた前庭がある。この用途は農作業や家事など多様であり、家畜飼育のスペースとしても大事な空間であった。羊、ヤギ、牛は、冬季を除いて小麦の刈跡地や周辺の草地で放牧され、毎朝この放牧地に追われたが、夕方には放牧を終えた家畜がこの前庭に戻された。ここには家畜小屋や家畜の餌台も設けられていた。
   農民の生活にとって家畜は、食生活に欠かせないヨーグルトやチーズに加工するミルクの供給源であり、ジュウタンを織るための羊毛の供給源でもあった。さらに糞とワラから肥料も手に入り、なにより重要なのが貴重な現金収入源であった。

農家の前庭に設置された家畜の餌場の画像

農家の前庭に設置された家畜の餌場

   地主から解放されガルエの外に広がった農家は集まって集落を形成し、強い権限をもった地主が退去したことで村民の共同意識と自治的機能が強められた。集落は通常、その中央に広場が配置され、ここで人々が暇なときに集まってお喋りをし会議も開いた。共同放牧をする家畜は毎朝この広場に集められた。比較的人口の多い村では広場の一角にタバコ、塩、茶などを商う店(ドックン)が店を開き、広場に共同井戸のある村もあった。近代化政策の一環として集落に隣接して小学校が建てられ、貧しいながら農民は学校を共同で管理し子どもたちを通わせた。

ポレノウ村の小学校の画像

ポレノウ村の小学校

農地改革後の1972年におけるポレノウ村の集落図(1972年)

農地改革後の1972年におけるポレノウ村の集落図(1972年)

放牧を終え村の広場に戻った家畜の画像 広場にある共同井戸の画像

放牧を終え村の広場に戻った家畜

広場にある共同井戸

ポレノウ村の集落(1972年)の画像 ポレノウ村の隣村 ドメアフィシャン村(1972年)の画像

農地改革後の1972年におけるポレノウ村の集落図(1972年)

ポレノウ村の隣村 ドメアフィシャン村(1972年)

   3   家の建築

 

   村の家作りにはレンガが欠かせない。富裕層のなかには焼レンガを使うものもあったが、1970年代までは村で自給できる日干しレンガが使われた。身近にある土を掘り出して切りワラを混ぜ、水を加えて練る。練りあがったら型枠に入れて形を整え数日干せば出来上がる。周辺の土が粘土質でレンガに適し自給できたため、レンガ作りに多くの費用を必要としなかった。
   家作りの工程は、まず基礎を固め日干しレンガを積み上げることではじまる。レンガ積みは、レンガの上に練り土を乗せレンガを重ねる方法がとられた。必要な高さまで積んだら、直径8cmほどの丸太をほぼ40cmの間隔で渡し、この上に葦を編んだブリアーを乗せて天井とする。その上にさらに細い木の枝を敷き詰め、練り上げた土で厚く覆い屋根とする。乾燥地とはいえ冬季には雨が降り、屋根は毎年補修する必要があった。積んだレンガの表面には内側と外側にコテで練り土を乗せ平らに塗られる。床も練り土を乗せ、居間には平織りの敷物やジュウタンが敷かれる。もちろん立派なジュウタンではない。

日干しレンガ作りの画像 日干しレンガを積み上げて家の枠組みを作るの画像

日干しレンガ作り

日干しレンガを積み上げて家の枠組みを作る

天井用のブリアー作り(葦で編まれる)の画像 屋根の補修(土と切りワラを練って塗る)の画像

天井用のブリアー作り(葦で編まれる)

屋根の補修(土と切りワラを練って塗る)

 

   この30年間、村の様子は大きく変わった。近代化の波が押し寄せ、交通の発達で都市との距離が縮まり、豊かになって農民の生活スタイルは大きく変わった。住居は焼レンガ作りの大きな家になり、室内にはジュウタンが敷き詰められテレビが置かれて、生活ははるかに快適なものとなった。2006年の夏の日、ヘイラーバード村のある知人の家を訪れたときにはクーラーをかけてもてなしてくれた。村から羊、ヤギ、ロバが消えて前庭の用途も変わり、自動車の駐車場やトラクター置き場として利用しているところもあった。  もちろん食生活もおおきく変化した。1970年代には発酵させることのない自家製の薄いパンとヨーグルトそれに野菜が主食で、米や肉は結婚式などハレの日にしか口にできなかった。しかし、今は米も肉も日常的に食卓に上っている。

ポレノウ村の一農家の室内の画像 居間にはテレビが置かれているの画像

ポレノウ村の一農家の室内 

居間にはテレビが置かれている

 

   村の住民の生活はこの一世紀の間にダイナミックに変化した。遊牧から定住へ、地主支配から自らの土地を所有する農民へ、そして近代化の過程で生活スタイルも大きく変わった。集落と住居の変遷は、村をとり巻く社会の変化を象徴的に表現してきたといってよい。