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 RESERCHマルヴダシト地方のオアシス農業社会のバー

・ポレノウ村再訪  ・マルヴダシト地方の村の変遷  ・マルヴダシト地方のオアシス
・遊牧民  ・マルヴダシト地方のオアシス農業社会   ・イランの伝統農具と生活用具
・イランの村のガルエの生活 ―大野盛雄氏の1964年の写真から―

マルヴダシト地方のオアシス農業社会

   西アジアは乾燥・半乾燥地の割合が高い。このため農業には適さない地域と思われがちだ。だが、麦類を中心とした地中海農耕文化の発祥の地は西アジアにあり、メソポタミアでは古代文明の花が開いて3000年以上も前に高い農業生産力を誇っていた。乾燥地であっても河川や地下水に恵まれたところではオアシスが開発され、優れた農業地帯が発達してきたのだ。
   テヘランから1000km南に位置するマルヴダシト地方もこうしたオアシスの一つである。幅20km、長さ80kmに及ぶこの大オアシスには200を超える村落があり、市場が求める多様な農産物が作られ、食肉、缶詰、肥料などの農業関連工業も展開して、一大農業地帯として発展している。
   しかし1970年代のはじめには、変化の兆しはみられたものの数百年も変わらぬ停滞した社会が続いているようにみえた。水に恵まれてはいたものの水利開発は途上にあり、小麦はヘクタール当たり1トン前後しかとれなかった。農民の暮らしも貧しく、集落は日干しレンガを積み上げた家々が並んでいた。かつて私は『中東の農業社会と国家』(2003年 御茶の水書房)の序文で次のように書いている。
   「農民からの聞き込みによって村社会の実態が徐々にみえはじめた頃、中世にワープしたような錯覚に陥った。小農の村を想定していたのだが、現実には村の土地は平等の原則で農民によって共有され、農民が利用する農地は毎年くじ引きで割り当てられる割替が慣行となっていた。耕地制度も中世ヨーロッパの開放耕地制ときわめてよく似ていて、農業は全体の強い規制のもとで営まれていた。つまり、中世の村落共同体の諸制度がそのまま現代まで続いていたのだ。」
   もっとも、村の生活はそれ以前と比べてかなり改善されてはいた。訪れた数年前の農地改革で前近代的な地主制は廃止されていたし、トラクターやポンプ井戸の普及で農業のやり方も変わりつつあって、時代が大きく変ろうとしていた。
   ここで紹介するのは1972年に半年間滞在して観察したこの地方の一つの村(ポレノウ村)の農業と農民社会についての記録である。日本とは風土も社会も異なる地域の話は実感が湧きにくい。そこで、写真を使って目で確認できるように工夫を試みた。

一対の牡牛

 

   農業の機械化が進む以前、日本の農家では牛や馬が飼育されていた。飼育の目的としては運搬とか肥料に使う糞の利用があったが、水田を耕す犂や馬鍬を牽引する役畜としての役割も重要であった。西アジアの農業も日本と同様、犂などをけん引する役畜が不可欠であった。ただ、気候風土が異なり乾燥地の硬い土壌を耕すには1頭では力不足で、犂は通常2頭の牡牛で牽引された。耕地を耕すときには2頭の牡牛とくび木で結び、犂を長柄でこの頚木に繋いだ。
   2頭の牡牛でけん引したのは犂だけではない。後に紹介する、土壌を砕き整地をするための農具〈マーレ〉や脱穀作業のための農具〈ボレ〉も牡牛2頭で牽引された。2頭の牡牛による犂耕や脱穀作業の風景は古代メソポタミアの遺跡のレリーフにも刻まれており、西アジアの長い歴史のなかで「一対の牡牛」は農業の方式一つの特徴を与えてきたといってよい。

犂による耕作

犂による耕作

〈ジョフトjoft〉

   農耕に2頭の牡牛が欠かせないが、オアシス農業地帯では農民は通常1頭の牡牛しかもたなかった。オアシス農業は灌漑作業などに多くの労働を要し集約度が比較的高い。2頭の牡牛で耕せる耕地の規模は農民1人の労働能力には広すぎた。このため、農民は1頭の牡牛をもち、農民2人が牡牛を持ち寄って農耕を共同で行う制度が生まれた。
   牡牛を持ち寄ることで共働する農民の組ができるが、この犂組をイランでは〈ジョフトjoft 〉と呼ばれた。〈ジョフト〉はもともと2頭の牡牛を結ぶ「くび木」のことである。このくび木が「一対の牡牛」を意味するようになり、さらに共働する2人の農民の関係、つまり「犂組」に意味を発展させた。
   ただ、どの地方でも〈ジョフト〉と言っていた訳ではなく、マルヴダシト地方では〈バンデガーウ〉と呼んでいた。バンドは「紐」また「結ぶこと」、ガーウは「牛」のことだから、ジョフトとはほぼ同義である。

ジョフト

   牡牛を使役する農作業を通して2人の農民が共働する関係から、犂組としての〈ジョフト〉が耕作の最小の単位となる。このことから村の規模を〈ジョフト〉で表わすこともできた。たとえば「A村は30ジョフトの村である」というとき、この村には30対の牡牛と60人の農民がいることになる。また、土地に対して労働力が不足していたマルヴダシト地方の場合、牡牛2頭引きの犂で耕す農地の広さはおおよそ一定していたため、ジョフト数でおおよその広さを知ることができた。一対の牡牛の犂耕能力は7ヘクタール程であり、耕地のほぼ半分を占める休耕地を含めると1〈ジョフト〉はおおよそ14ヘクタールであった。
   村の灌漑用水の持分もジョフトに対応した。ポレノウ村はかつてマルヴダシト地方を縦貫するコル川の堰から分水される灌漑用水に840分の22に持分をもっていたが、この22はジョフト数を表していた。また地方によっては灌漑用水の持分を〈ジョフト・アーブ(アーブは水の意味)〉で表わしていた。つまり、1〈ジョフト〉の耕地を灌漑する水量の単位が〈ジョフト・アーブ〉ということである。

2   〈ガーウ gav〉

   マルヴダシト地方では、農民の耕作権を〈ガーウ gav〉と言い、「私はガーウをもっている」というように表現した。ガーウは本来「牡牛」の意味だが、「私は牛をもっているよ」と言っているのではない。「村に耕作権をもつ農民です」と言っているのだ。なぜ、耕作権が「牡牛」なのか。すでにお分かりのように、牡牛が農耕に不可欠な役畜であったことと関係がある。〈ガーウ〉は農民の裸の労働ではなく1頭の牡牛と一体化した耕作能力に対する権利であった。農民2人の〈ジョフト〉は2〈ガーウ〉からなることになる。
   地主が村の土地を所有していた地主制の時代には、農民は1頭の牡牛をもつことを条件に地主経営の農場で働く権利が与えられていた。牡牛が死んだ場合には地主は前貸しによって農民に牡牛を取得させた。この地主の農場で働く権利も〈ガーウ〉といい、農民はみな等しく1〈ガーウ〉の権利をもっていた。
   農地改革で農地の所権利は地主から村の農民に移った。その後は、村の農地に対する農民の持分権が同じく〈ガーウ〉と呼ばれるようになった。〈ガーウ〉の内容が時代とともに変化したことになる。一般に農地改革といえば、土地の所有権が地主から個々の農民に移ることをイメージする。だがマルヴダシト地方の場合はまったく違っていた。農地改革時に取り交わされたポレノウ村の「農地売買契約書」をみると、土地の買手の欄には36人の氏名が列記され、各農民は「36人の共同所有地に対して無境界の1人分に権利をもつ」と記されていた。つまり村の土地は36人の共有財産になり、農民は等しくこの36分の1に権利をもつことになった。この持分権が〈ガーウ〉と呼ばれたのだ。

イラン各地で使われた犂はいずれも牡牛2頭引きである。形は地方で若干異なるものの使い方の基本は同じで、土壌に差し込む角度が調節できるようになっている。犂先の鉄の部分に注目すると、アジアやヨーロッパのものと比べて小さく、とくに乾地農業地帯で小さく鋭角に尖ったものが多い。この理由は、一つに土壌の硬さにある。夏の高温・乾燥によって土壌の有機質が分解され易く、湿潤地帯と比べるとかなり硬く、大きな犂先では牡牛2頭で牽引するのが難しい。だが別の理由もある。犂耕は土を砕き空気や水の浸透をよくして作物の生育を促す作用があるが、乾燥地ではこれに水の蒸発を防ぐ目的が加わる。とくに人工的に灌漑を行わない乾地農業ではこの点が重要で、これには小さく鋭角に尖ったものの方が適している。土壌の水分の保持ということから「2回の犂耕は1回の灌漑に相当する」とも言われている。

犂

〈シェリーキ〉

   〈ジョフト〉は牡牛を使う農作業による農民2人の共働関係であったが、イランのオアシス農業地帯には灌漑の諸作業を契機とするもう一つの共働関係があった。一般に〈ボネ〉と言うこの共働の組織は農民4~8人で編成され、マルヴダシト地方では仲間を意味する〈シェリーキ〉と呼ばれていた。
   畜力で揚水する井戸を灌漑手段とするある村の場合、6人の農民の共働で灌漑作業が行われていた。灌漑時の農民の配置をみると、馬にロープを結び皮袋に60kgほどの水を満たしてくみ上げる揚水作業で、馬の操作と水の汲み上げに2人が当たり、もう1人が汲み上げられた水を耕地に導いた。つまり3人が井戸灌漑に従事したが、この作業が2交代で行われたため計6人で〈シェリーキ〉が編成されていた。役畜の数では3ジョフトの6頭の牡牛に加えて2頭の馬がこの〈シェリーキ〉に帰属した。

畜力揚水の井戸 60kgの皮袋を馬が引き上げ、これを灌漑溝から耕地に導く 畜力揚水の井戸 60kgの皮袋を馬が引き上げ、これを灌漑溝から耕地に導く

畜力揚水の井戸 60kgの皮袋を馬が引き上げ、これを灌漑溝から耕地に導く

   また、河川灌漑のポレノウ村の場合、〈シェリーキ〉は4人で編成され、36人が4人ずつ9つの〈シェリーキ〉で構成されていた。灌漑は輪番で行われ、1昼夜(シャバネルーズ)が1つのシェリーキの持ち時間になっていた。灌漑作業には農民2人が従事し時間を区切って残り2人と交代した。共働する農民の数は河川、井戸、カナートといった灌漑の方式やその他の条件で違ってくるが、いずれにせよ複数の農民の共働が不可欠であった。
  農作業に複数の農民が協力することは日本も同じである。灌漑用水の管理は共同で行なわれ田植えには近所の農家が手伝った。ただ日本の場合は労働の貸し借りであり、経営は農家が単位になっていた。これに対して、〈シェリーキ〉は労働の交換ではなく、耕地を共同で利用し耕作の全過程をメンバーが共同で行うというものであった。しかもトラクターが普及し灌漑のシステムも変化して共同の必要性がかなり薄れていた1970年代に至っても〈シェリーキ〉の共同関係は続いていた。
    農作業での農民相互の協力が労働交換ではなく農地を共同で利用するという形をとったのには理由がある。マルヴダシト地方では、農地は個々の農民に帰属していなかった。地主制の時代は地主が所有し、農地改革後は村の農民による共同所有であり、個々の農民の権利はこの共有地における持分権であった。後に具体的な事例で紹介するが、〈シェリーキ〉のメンバーは共同の耕地で共同して農作業を行い、また労働の成果である収穫物は均等に分けられた。
  商品経済化が進み農業の機械化も進んでいた1970年代にこうした制度が残っていたことは奇異にみえるかも知れない。農民がもつ持分権は法的には譲渡可能な権利であるから共有関係が崩れてしかるべきである。だが、少なくとも70年代には村落共同体を彷彿させるこうした村がマルヴダシト地方に広く存在していたのである。

ポレノウ村の耕地と農業

農地の利用

   マルヴダシト地方の村でみられる農民相互の関係は、日本の農村とは大きく違っていた。これは農耕をめぐる自然条件や社会構造の違いが影響しているが、次に、農業生産をめぐる農民相互の関係を、ポレノウ村の事例で、農事暦をたどりながら具体的にみていくことにする。この村には集落が2つあり、集落ごとに耕地も2分されていた。ここでは内一つの集落に住む24人、6〈シェリーキ〉の耕作地を対象にする。

1972年当時の耕地(刈跡地、綿作地、耕起地)

1972年当時の耕地(刈跡地、綿作地、耕起地)

 

   まず1972年10月の時点で農地がどのように利用されていたのか、概念図を使って説明しよう。24人の共同所有地は大きく7つの耕区に区切られていた。これを農地の利用で分けると、4耕区(a,b,c,d)は小麦の単作地である。麦作地は2年1作で農地が利用されていたため、a、bの2耕区とc、dの2耕区は各年で小麦が作られていた。これに対して、e、f、gの3耕区は、小麦―綿花―休耕を3年で循環させていた。 1972年10月の時点では、a、b、cの3耕区は、耕起され土塊がゴロゴロした状態にあり、まもなく小麦生産が始まろうとしていた。f耕区は綿花畑でまだ収穫作業が続いていた。一方c、d、gの3耕区は、7月に小麦が収穫された後は、家畜を自由に放牧できる共同放牧地として開放されていた。この刈跡地はまもなく耕起され、1年間休ませて翌年の11月から小麦のための準備が始まる。

耕地の遠景(耕起地・小麦の刈跡地・綿作地の各耕区)

耕地の遠景(耕起地・小麦の刈跡地・綿作地の各耕区)

綿作地 小麦の刈跡地(放牧場として開放されている)

綿作地

小麦の刈跡地(放牧場として開放されている)

メートルキャルダン(耕地の測量)

 

   1972年11月、小麦の準備作業がa、b、eの3つの耕区ではじまった。その最初の作業が各〈シェリーキ〉の利用地を決めるための耕地割りである。村の代表数人が結び目がついた紐とビール(長い柄のシャベル)をもって集まり、〈シェリーキ〉の数に6等分するために土地を測っていく。紐をもった2人が長さを測り、残りの1人が境界に印として土盛をし土塊を積む。この測量は〈メートルキャルダン〉と呼ばれ、間口だけを2か所を測る簡単なものであった。土盛を結んだ線が〈シェリーキ〉利用地の境界となるが、それぞれは細長い地条をなしている。この年、小麦用に準備された3耕区で同じ作業が行われた。

耕地割のための測量 耕地の境界を記した土盛と種まき

耕地割のための測量

耕地の境界を記した土盛と種まき

ゴルケシー(くじ引き)

 

   測量が終わると、耕地割りをした6つの耕地(地条)の帰属を決めるべく〈ゴルケシー(くじ引き)〉が行われる。各〈シェリーキ〉の代表が広場に集まり、6等分された耕地(地条)の位置を記した紙切れを一人ずつ引いていく。小麦でも綿花でも収穫が終った後の耕地は村の共同利用地となるため、播種に先立ってこうした土地割とくじ引きが必要とされた。こうした方法で耕区ごとに農地の利用が決まった。〈シェリーキ〉の利用地は毎年移動したから、全体による耕地規制が強く、農民個々人はもとより〈シェリーキ〉にも農地の利用を決める権限がなかった。

〈シェリーキ〉の代表によるくじ引き

〈シェリーキ〉の代表によるくじ引き

播種 ⇒ 砕土

 

   各〈シェリーキ〉が利用する耕地(地条)が決まると種まきが行われる。この作業は農民が腰に巻いた袋に種用の麦を入れ、これをミレーの絵画「種まく人」さながらに耕地に撒いていく。耕したままの耕地は土塊が砕かれないまま露出している。種はこの状態で撒かれ、種まきが終わるとトラクターによる砕土・整地が行われる。砕土作業は土を砕くと同時に種を土壌に埋める役割を果たしている。機械化以前には、この作業に〈マーレ〉が使われた。2頭の牡牛が引っ張る板には、土に面する側に多数の木釘が出ていて、これで耕地の土塊を砕いた。

種まき(耕地は土塊でゴロゴロしている) トラクターによる整地・砕土作業

種まき(耕地は土塊でゴロゴロしている)

トラクターによる整地・砕土作業

〈マーレ〉による砕土・整地作業

〈マーレ〉による砕土・整地作業

畦立て ⇒ 灌漑

 

   整地・砕土作業が終わると畦が立てられる。畦はまず耕地の境界を記した2つの土盛を結んで立てられ、ここではじめて地条の境界が見た目にもはっきりする。その後、畦は灌漑のための区画をつくるために縦横に碁盤の目のように立てられていく。この作業もトラクターで行われたが、以前には2人で作業をするコローという農具が使われた。一方が鉄板を差し込み、もう一人が鎖を引っ張って引き寄せることで土を盛りあげ、これを横に移動しながら繰り返して畦を立てていく。
   灌漑は、畦で囲まれた区画を一つずつ潅水する方法がとられ、小麦が生育するまでに3回ないし4回行われた。この地方の年間降水量は300ミリ前後で東京の7分の1程度と少ない。降雨季は晩秋から春にかけてであり、4月半ばからはほとんど雨はなく高温の乾燥の季節に入る。このため灌漑は4月以降に頻繁に繰り返される。

トラクターによる畦立て作業  畦立て作業に使うアタッチメント

トラクターによる畦立て作業

畦立て作業に使うアタッチメント

コロー   コローによる畦立て作業

コロー  

コローによる畦立て作業

畦が立てられた耕地  灌漑区画を灌水する

畦が立てられた耕地 

灌漑区画を灌水する

収穫と分配

 

   小麦は鎌で刈り取られてロバで脱穀場に運ばれ、〈シェリーキ〉ごとに山に積み上げられる。続いて脱穀の作業に入るが、これには脱粒、風選、篩かけの3段階がある。 まず、積み上げられた麦束の山を周辺から崩し、これをトラクターが踏み回る。この作業は麦粒を外しワラを破砕するためのもので、トラクター以前には、丸太に多くの鉄片を打ち込んだ〈ボレ〉という農具が使われた。これに人が乗り2頭の牡牛で牽引し山を崩しながら周囲を踏み回った。

トラクターによる脱粒  風選による小麦の選別

トラクターによる脱粒

風選による小麦の選別

〈ボレ〉とボレによる作業 〈ボレ〉とボレによる作業

〈ボレ〉とボレによる作業

ボレによる作業(大野盛雄氏撮影)

 

   続く作業は、麦粒を選り分ける〈バードザダン(風選)〉である。風のある日に、フォークで掻き揚げて比重の軽いワラを飛ばして選別する。麦粒が分けられると、篩でワラくずや小石をとり除く。こうして脱穀場には〈シェリーキ〉の数だけ小麦の山ができる。ポレノウ村では36人が4人ずつ9つの〈シェリーキ〉があったから9つの山ができた。それぞれの山は〈シェリーキ〉4人の共同作業の成果であり、これを天秤で丁寧に測り等しく4等分した。実質的な平等原則のもと等しく労働を提供し、等しく分配したのである。

シェリーキ〉4人による小麦の分配

〈シェリーキ〉4人による小麦の分配