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遊 牧 民

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   1972年から73年にかけて、イラン南部、マルヴダシト地方のポレノウ村で約半年滞在した。9月のある日、遊牧民の隊列が集落のすぐ横を通り過ぎた。女性が着飾ってラクダや馬に乗り、これにテントなど家財道具を積んだラクダやロバが続いた。この一団が通過してしばらくすると今度は、いくつかの群れに分けられた羊やヤギが土ぼこりをあげて通り過ぎ、棒をもった男たちが群れを崩さないように動き回っていた。乾燥した大地におけるこのドラマは、その後10日ほど毎日のように繰り広げられた。
   それから30年余り経った2006年、同じ季節にポレノウ村を訪れたが、遊牧民の隊列をみることはできなかった。この間、定住化が進み遊牧民の数は著しく減少した。時折、遊牧民のテントを見かけることがあったが1つ2つのテントがあるばかりで、1972年の光景は幻となった。

遊牧民の画像

1.ポレノウ村を通過する遊牧民の隊列

 

   私のノートには、遊牧民が集落の横を通過する日のことが次のように記録されている。
「9月19日 朝7時、食事の用意をしていたとき、村の子どもが「アシャーエル(遊牧民)が来た」と教えてくれたので、カメラをもって飛び出した。村の耕地を建設中の農業用水路が横切っている。その水路に沿って遊牧民の隊列は行進していた。隊列の先頭を4,5人の男が歩いてくる。イラン南部の遊牧民がかぶるフェルト製の帽子をかぶり、家畜の群れを追うときに使う〈ドメガウイー(牛の尻尾という意味)〉という棒を首の後ろに廻し両手で支えている。男たちの後からラクダが十数頭、家財道具を積み、このうち4頭には女が乗っている。女の衣装は遊牧民の定住村であるポレノウ村の人たちが着る民族衣装と同じだが、彩りが鮮やかで一目で正装であることがわかる。
   この隊列から500メートルほど間をおいてロバの一隊が速い足どりでやって来た。20頭ほどのロバには女・子ども、それに家財道具が積まれている。荷物の上に鶏がしばり付けられ、また生まれたばかりの子羊を抱いた老女が乗るロバもある。この一隊からさらに500メートルほど遅れて十数頭のラクダがやって来た。その背にも家財道具が積まれているが、そのうち2頭は10歳以下とおぼしき男の子と女の子がそれぞれ乗っていて手綱さばきもみごとにラクダの群れを引き連れている。
   この遊牧民のグループは移動する人々の数からすると50家族くらいだろうか。隊列はほぼ500メートル間隔で5つほどが続いた。犬も行進の隊列にいて我々に襲いかかる風をみせ、隊列に近づくのを阻止している。村人が、遊牧民の犬は怖いから近づかないほうがいい、といっていたのを思い出した。しかし、羊やヤギの姿がみえない。聞いてみると、1時間ほど後に男たちが追ってくるという。隊列は用水路の土手を集落のあたりで南に折れ、小麦の刈跡地を遠く過ぎ去っていった。・・・・」

遊牧民の画像遊牧民の画像遊牧民の画像 遊牧民の画像

   「9月20日 朝早く起き、昨日遊牧民が通過した付近で遊牧民を待つ。7時40分、遠くに土けむりが上がっているのが見える。先頭はやはりドメガウイーをもつ男で、こちらに向かってくる。テント一式を積んだ十数頭のラクダ隊、女と子どもが乗ったロバ隊がこれに続く。今日の遊牧民の隊列はかなり大きい。ラクダ隊が3つ、ロバ隊が5つ、そのほか歩きや整然とせずばらばらにやってくる馬やロバなどがひっきりなしに通り、通過し終わるまでに優に1時間かかった。ロバの背に振分け載せられたテント地の2つの袋からは羊やヤギの子どもが顔だけ出し、ラクダに乗った女性が子どもを抱いている。ラクダ隊の先頭には男が乗り、進むたびに上下にゆっくりと揺れ、ドメガウイーを振るう姿があたかも楽隊の指揮者のようである。

遊牧民の画像
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   隊列のほぼ中ほどを美しく飾られた数頭の馬の小隊があった。このうちの2頭には美しい民族衣装で着飾った娘が2人乗っていた。うち1人は真っ白のスカーフを、もう一人は真っ赤なスカーフをかぶり、その先は足の先まで伸びていた。筆舌に尽くしがたいこの魅惑的な光景をカメラに収めようとあわててシャッターを押した。しかしフィルムは白黒、カラーフィルムを入れていなかったことが悔やまれてならない。

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美しい民族衣装で着飾った娘
(残念ながらモノクロ)

   この遊牧民の集団が通り過ぎた後、羊の群れが押し寄せてきた。刈跡地の草を食べ広がりながら向かって来る。呑み込まれてしまいそうな錯覚に陥った。・・・・」
   その後、10日ほど毎日のように遊牧民の隊列が通過した。隊列には隊のリーダーと思しき年配の男が必ずいた。皆馬に乗っているが、白馬に跨る老人もいた。まなざしは深く責任をもったリーダーであることがすぐにわかる。誇り高く、私が「敵」ではないとわかると、きびしい目つきながら微笑を返し、丁寧に挨拶した。

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村の休耕地を移動する羊とヤギの群れ

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2.夏営地と冬営地

   遊牧民は冬季と夏季のそれぞれに家畜を放牧する2つのテリトリーをもっている。冬季の宿営地は〈ギャルムシール(冬営地)〉、夏季の宿営地は〈サルファッド(夏営地)〉といい、それぞれに広大な放牧地をもつ。冬季の宿営地は、夏は乾燥・高温で草は枯れるが、晩秋から春にかけては温暖で雨も降り放牧地は緑を帯びる。一方、夏季の宿営地は、緯度がより高い山地に位置するため冬は寒冷で雨や雪が降り、晩春から夏にかけて牧草地に草が生える。つまり、放牧に適した季節がちょうど逆になる。遊牧民は年間を通して家畜を放牧する必要があり、季節の変わり目である春分と秋分の前後に2つの宿営地の間を移動した。
   遊牧民部族はそれぞれギャルムシール(冬営地)とサルファッド(夏営地)にテリトリーをもつ。イラン南部には、〈カシュガイー〉と〈ハムセ〉の大きく2つの部族連合があり、連合を構成する部族がそれぞれにテリトリーをもち住み分けている。冬営地と夏営地の距離は部族によって違いがあるが、500キロを超えるものもあり、片道40日前後で移動した。ポレノウ村を遊牧民が通過したのは、村があるマルヴダシト地方が豊かな農業地帯であり、多くの部族の移動経路になっていたためである。

図1 イラン南部の遊牧民部族の宿営地

イラン南部の遊牧民部族の宿営地 イ,ロ,ハ・・はカシュガイー、a,b,c・・はハムセの諸部族 赤線はイルラー(部族道)

   2つの宿営地の間を移動する遊牧民のルートは〈イルラー(部族道)〉と呼ばれている。イルラーにおける遊牧民の主な権利は、「通過し、非耕地で放牧し、水を使う権利」で、地域の住民との間で慣行的に認められたものである。途中の通行や放牧が拒否されれば遊牧自体が成り立たないため、イルラーにおける権利は遊牧民にとって存続に関わる重要なものであった。
   20世紀半ばまで遊牧民の力ははるかに強大だった。収穫前の畑に遊牧民の家畜を侵入させ、村を襲って家畜を奪うこともあり、農民と遊牧民はしばしば敵対した。こうした遊牧民の勢力を削ぐため政府は軍や辺境警察を送って遊牧民を弾圧し、この地方もしばしば戦場になった。しかし遊牧民勢力の衰えとともに対立関係は薄れて共存意識が生まれ、刈跡地での宿営も暗黙の了解によって慣行化された。ある農民に「遊牧民の家畜にワラを食べられてしまわないのか」と尋ねると、問題ないといった顔をして「家畜がフンを落としていくよ」と答えた。休耕地の地力を維持する助けになるという訳である。

遊牧民の羊とヤギが通る家畜道 遊牧民の隊列は車が通ると道を譲る

遊牧民の羊とヤギが通る家畜道

遊牧民の隊列は車が通ると道を譲る

   イルラーは人里離れた丘陵地の斜面を通ることも、車の走る一般道を通ることも、はたまた村の農民の畑を横切ることもある。移動させる家畜の群れを飢えさせない草が必要であり、水場の存在も条件となる。ラクダと違って羊やヤギは一日1回以上の給水が必要なためである。
   沢山の羊やヤギが通る丘陵地にはその跡が規則正しい文様を作る。道路を通る時には、車が通るたびに家畜の群れを際に寄せて道を譲らなければならない。農地を横切るときには、休耕地や収穫を終えた小麦の刈跡地を通り、作物が作られているところに群れが迷い込まないように細心の注意が払われる。
   農民も家畜を飼っている。農民は放牧を共同で行い、村の子供たちが毎朝家々から羊やヤギを集めて放牧地に連れていく。農民が飼う羊やヤギは遊牧民のものと外見的には変わりがない。たぶん品種も同じだろう。だが、不思議だなと思われることをいくつか聞いた。まず、農民が飼っている羊は年1回子どもを産むのに遊牧民の羊は2回だという。また、遊牧民の羊やヤギを季節で移動させないと高い割合で死んでしまうという。奇妙だが複数の遊牧民や農民から聞いたことなので間違いないだろう。獣医学の先生は、宿営地の移動が家畜の生理に影響した可能性があると話していた。羊の商品価値にも違いがある。村の農民によると、遊牧民の羊は村の羊よりも質がよく高い価格で取引される。

3.遊牧民の社会

   集団で移動する遊牧民をみると共同体としての強い結束を感じる。数百、数千の群れで通る羊やヤギはメンバーによって共有されているのだろうと想像される。だが、ポレノウ村の横を通過したバーセリー族について1957/58年に調べた文化人類学者のバースによると、核家族がテントの単位であり、羊やヤギなどの家畜は家族を単位で所有された。豊かな家族は所有する家畜の一部を牧童に請け負わせることもある。しかし移動時には氏族や拡大家族によって共同で放牧され組織的に行動した。数十家族で移動するどのグループにも統率するリーダーがいた。
   しかし、かつて遊牧生活をしていた人は次のようにも話した。「遊牧民社会も農地改革前の農村とあまり変わらない。沢山の羊をもった豊かな連中がいて、羊をもたない遊牧民に一年契約で遊牧をさせている。彼らに衣・食を提供し一年が終わると任せた羊の頭数に応じて報酬を与える。マーレキ(雇農を使って経営を行う大土地所有者)みたいなものですよ。」 遊牧民の隊列にも馬に乗る美しく着飾った娘たちが行進していた一方で、貧しそうなチュウパン(牧童)が羊の群れを追っていた。
   村を通過する遊牧民と村の住民との間にはほとんど接触がない。物々交換をするわけでもない。村の刈跡地に宿営する遊牧民についても然りで、ほとんどコミュニケーションがなかった。村人は世界を異にする人たちとして隊列を眺めていた。村の女たちは遊牧民を「美しい」と表現した。遊牧民の生活環境は年々悪くなっていったが、少なくともポレノウ村の農民は彼らを畏敬の念をもってみていた。
   ポレノウ村に遊牧民の通過を楽しみに待っている男がいた。通過する遊牧民の中に兄弟や親戚がいて彼らに会うのを待ち望んでいた。アラムダールという名のこの男が語る自らの物語は遊牧から定住へのドラマを見せてくれる。
   彼は7歳の時に移動する遊牧民の隊列からはじき出されてポレノウ村の隣の村に住むことになった。なぜはじき出されたかは不明だが、彼は子供でもできるチューパン(牧童)で50頭の羊を毎日放牧し、ダシトバーン(畑の見張り)や日雇労働をやって生活の糧としていた。25歳の時に農地を広げようとしていたマーレキ(地主)の農場でライーヤト(雇農)としての権利を得た。そしてほどなくはじまる農地改革で地主から土地を得て土地持ちの農民になることができた。

アラムダール ジョマー

アラムダール

ジョマー

 

   マルヴダシト地方では20世紀の前半に地主主導で農業開発が進み、開発に伴う労働力不足を遊牧民で補った。ポレノウ村もこうした遊牧民の定住した村である。アラムダールは幼少であったため牧童のような仕事しかなかったが、大人になる過程で農民としての権利を手に入れることができたのである。しかし農地改革後は農民が土地所有者として安定したことで、定住した遊牧民が農民へと階段を登ることが難しくなった。
   遊牧民社会は人の流動性が高いようだ。とくに羊をもたない貧困層は金を稼ぐきっかけがあれば容易に集団から離れる。ある日、ジョマーという青年がネイをもって現われ遊牧民の音楽を披露してくれた。ネイは葦で作られた尺八のような、かすれた物悲しい音色を出す縦笛である。
   彼はこの年に遊牧民の一隊とともに冬営地に向かっていたが、職を得て隊列から離れた。村に隣接する広大な土地をもつ地主のチュウパン(牧童)として日当70リアル(当時の換算で280円)で雇われたのだ。地主所有の500ヘクタールに及ぶ小麦の刈跡地に小さな黒テントを張り、200頭あまりの羊やヤギを日夜放牧する仕事である。農場の管理人の小さな息子が風呂敷にパンを包んで彼のもとに毎日運んだ。この秋、しばらくの間、夜中に、羊につけられた鈴の音とともにネイの音が畑の向こうから遠く聞こえていた。彼は次の夏までここでチュウパンとして暮らし、一年後、再び村を通過する遊牧民の隊列に合流して夏営地に向かうということであった。

4.遊牧民のテントで

 

   一日の移動は10数キロ、早朝に出発し、正午前にはその日の宿営場所にテントを張る。羊やヤギは移動後に草地で一日を過ごす。このため宿営地は放牧が可能な草やワラのあるところが選ばれる。到着するとラクダやロバに載せて運んだ荷物が降ろされテントの組み立てがはじまる。宿営地での作業は女と年配の男が中心となり、若い男は羊やヤギを周辺の山や草地に追い、また麦の刈跡地で夕方まで放牧する。

村の小麦刈跡地での宿営

村の小麦刈跡地での宿営

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   遊牧民の一行が村の刈跡地にテントを張ったとき、その様子を観察しようと宿営地に近づいた。テント数は7、ラクダ13頭の小規模な集団であった。遊牧民の恐ろしい犬が吠えながら走ってきてテリトリーに入るのをけん制した。たまたま羊を追って戻ってきた男に誘われてテントに近づくことができた。
   遊牧民を象徴する黒テントはヤギの毛で織られている。直径7センチほどの12本の丸太で支えられ、これをロープで引っ張り地中に打ち込んだ杭に固定してある。テントは3方が囲われ、開いた側から中の様子が窺える。15平方メートルほどのスペースの奥には布団が積まれ、わずかな家財道具がきちんと整理され、床に2,3枚のジュウタンが地面に直に敷かれていた。乾燥地は一日の温度差が大きく、昼間暑くても夕方には気温は大きく下がるため布団はかさばっても運ぶ必要がある。床に敷かれたジュウタンは遊牧民の女たちが織ったものである。ジュウタンの技術と文様は母から娘に伝えられた。
   テントの近くに祖母・母・娘とおぼしき3人の女性がいてパンを焼いていた。パン焼の装置は、地面に10センチほどの深さに穴を掘り、四隅に石を置いて、直径60センチほどの湾曲した鉄板を置いただけである。燃料は集めてきた羊やヤギのフンだ。小麦粉を練りこれを薄く直径40センチほどに伸ばして鉄板にのせ、ひっくり返しながら幾枚も重ねていく。火力が弱いのでふっくらしない。移動する遊牧民にとってこのパン焼の装置は簡便なのだ。

パン焼 テントでの茶の接待

パン焼

テントでの茶の接待

 

   チャイ(茶)でもてなされた。都市や村の人たち同様にお茶を飲む習慣があり、陶器の茶道具は欠かせない道具として移動中も持ち歩いた。茶を入れてくれた娘が、はにかみながら自分が織ったといって馬の背にかける色鮮やかな織物をもってきた。父親はこれに2000リアルの値段をつけた。売り物なのか自家用なのかはわからない。ただイランでは値が付けば自分が使っているものでも商品になる。売りたい意思というより会話の中の気楽なつなぎと解釈した。
   刈跡地に宿営したこのグループは明日8時頃に発つと言っていた。だが7時頃に行くとすでに出発した後で、あわてて後を追った。1キロほどで追いつき、隊列を見送りながらカメラを構えた。朝の空気は涼しく山際から昇り始めたばかりの太陽がこの列を照らし、影を長く引いていた。前日見かけたリーダーと思しき青年が白馬にのって通りすぎ、その後から馬に乗った娘がきた。前の日に茶を出してくれた娘で、馬の背から腹にかけて掛けられているのは、父親が2000リアルといったあの織物である。娘は民族衣装でみごとに着飾っている。衣装の扇状のスカートは馬の背を覆い朝日に映え光り輝いていた。

早朝娘は着飾って出発した

早朝娘は着飾って出発した

5.ギャルムシール(冬営地)へ

 

   遊牧民の通過がほぼ終わった10月はじめ、彼らを追ってギャルムシールに向かうことにした。カシュガイー遊牧民のテントを訪れたときに宿営地がファラシバンド付近と聞いており、どんなところか確かめたい衝動に駆られたからである。もちろん遊牧民の隊列について行った訳ではない。地図で確かめるとファラシバンドは村から南へ200キロにある町である。バスを乗り継ぎ、未舗装の山道が続いた。途中、ギャルムシールへ向かう遊牧民の隊列をいくつも追い越した。

ファラシバンドへの途中で遊牧民の隊列を追い越す

ファラシバンドへの途中で遊牧民の隊列を追い越す

 

   ファラシバンドは周辺の遊牧民社会や農村の中心となっている小さな町である。ジャンダルメリー(地方の治安を守る警察)の屯所があり、警官など治安関係の人が多く目に付いた。バスが山や丘陵をぬって走っていたとき小高い丘の上にアンテナを張った監視小屋をいくつも見た。かつて遊牧民部族は国家のコントロールの外にあり1960年頃までしばしば軍隊と衝突した。すでにその面影はなくなっていたが、警戒が完全に解かれた訳ではないのかもしれない。
   町には何台もの大型のトラックが留まっていた。荷台に載っていたのはそのほとんどが村の横を通過した遊牧民の隊列が運んでいたもの、つまり黒テント一式、寝具、日用品等と、それに羊やヤギである。そういえばテントに誘ってくれた男が「最近では冬営地と夏営地の移動にトラックを使い遊牧しないものが増えている。とくに豊かな連中はそうだ」と言っていた。かつては遊牧が合理的な羊の飼い方だったが、車が増えて道路を移動しにくくなり、また農場経営者は所有地に遊牧民の羊を入れるのを拒否することが多くなり遊牧がやりにくくなっている。金があればトラックで輸送し草の不足を牧草栽培で補う方が合理的なのだろう。町に留まっているトラックの列をみてこれを実感した。現在、遊牧がほとんど見られなくなったのも、遊牧民の減少だけでなく、家畜の飼い方の変化も関係しているのであろう。

トラックによる宿営地間の移動

トラックによる宿営地間の移動

ギャルムシールの景観

ギャルムシールの景観

 

   ファラシバンドの安宿で知り合った男を案内人に彼の車をチャーターしてギャルムシールを走った。冬営地でどんな暮らしをしているのかその実態を知りたかったのだが、広大な土地のあちらこちらに黒テントがみられただけで仔細に観察することはできなかった。まだ戻っているグループが少なかったのかもしれない。
   ところどころで小麦畑をみた。種を撒き土で覆っただけで、他に作業をした形跡がない粗放な農業である。農村では7月に刈り取りが行われるが10月なのにまだ収穫されていない。収穫量も播いた種の量の5倍にみたないだろう。周囲に人がいないので確認できなかったが、遊牧して戻ってきてから刈り取り作業を行う、遊牧と農耕の半農半牧の一つの形態かもしれない。冬営地では10月に到着してから3月に出発するまでの期間に家畜の飼料として青刈用の大麦を栽培することがある。
   途中、「テントの学校」にであった。遊牧民がテントを張る宿営地の近くにあり、10人足らずの小学生が勉強していた。先生は政府から派遣された兵隊先生で、夏営地と冬営地を移動するときには学校も一緒に移動するといっていた。

ギャルムシールで見かけたテントの小学校

ギャルムシールで見かけたテントの小学校

兵隊先生が子どもを教えていた

兵隊先生が子どもを教えていた

 

   この旅行には「ボディーガード」がついていた。ファラシバンドにバスがついたとき、一人の警官が「旅行ですか」といってニコニコ寄ってきた。町を歩いているときも彼にはよく出会った。夕方には宿としていた相部屋の安ホテルにも訪ねてきて「どうですか、困ったことありませんか」と声を掛ける。監視されてるなとわかったが、国が困ることをしているわけではない。車で案内した男も私の行動を警察に伝えていた。彼がその警官と話しているのを垣間見たことがある。
   ファラシバンドを離れる日、その警官はやはりバスのターミナルにいた。相変わらずニコニコして「旅はいかがでした」と声を掛けてきた。私は握手を求めてカメラを渡し記念の写真を撮ってもらった。

ファラシバンドのバスターミナルにて(警官が撮影)

ファラシバンドのバスターミナルにて(警官が撮影)

 

参考資料
F.Barth “Nomads of South Persia”, Oslo Universitetsforlaget,1965
P.Oberling ”The Qashqa’i Nomads of Fars”,Mouton,1974
L.Beck “The Qashqa’I of Iran”,Yale University Press,1944