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ポレノウ村再訪

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   イランの首都テヘランから南へ約千キロ、土沙漠や岩沙漠を走り抜けると、褶曲した岩山の一角に巨大な石柱が連なるペルセポリスの遺跡が現れる。古代アケメネス朝ペルシ アの神殿であり、紀元前330年にアレキサンダー大王の東征の際に焼かれた。西欧中心主義の歴史認識では、古代における「ヨーロッパによるアジアの征服」という特別な意味づけがされた遺跡である。巨大な石を敷き詰めた階段を上ると、眼前に広大なオアシス農業地帯を望むことができる。ここに記すのは、このオアシスにある一つの村とこの村を訪れた私の話である。

ペルセポリスの画像 マルヴダシト地方のオアシスの眺望の画像

ペルセポリス

マルヴダシト地方のオアシスの眺望

   この村をはじめて訪れたのは1972年の夏である。東京大学東洋文化研究所の大野盛雄氏を団長に、地理学、文化人類学、畜産獣医学、言語学などの研究者で構成される総合調査のグループが組織され、その2回目の調査がこの村で実施された。当時、私は農学系大学院の学生で、農業経済を専攻するまさに「駆け出し」であった。目的は、寝袋を抱えて村に住み込み、等身大で村の社会や人間を描くというもので、6ヵ月間、村で寝起きして調査を行った。毎朝、パンとヨーグルトが村民から提供される。食事を済ますと、気温が40度、湿度10%以下の炎天下の畑に出て行く。日々の農作業を観察し、家畜について放牧地を歩き回り、また農民を見つけてはさまざまな話を聞いてノートに記録する。これが私の村での日課であった。

ポレノウ村の耕地を望むの画像 ポレノウむらの集落の画像

ポレノウ村の耕地を望む

ポレノウむらの集落

   村の名前はポレノウ、家族数50ほどの小さな村である。村人が土と藁を練った日干しレンガを積み上げて作った家々が肩を寄せあっていた。貧しく、家財道具といえば、布団、鍋などの調理器具と食器、簡易ランプ、しばしば聞こえなくなるポータブルラジオくらいである。土間に敷かれた厚手のじゅうたんだけがほこりをかぶりながらも色を添えていた。主食のパンはヤギの糞を燃料にして鉄板で焼かれた。もちろん風呂はなく、トイレは家の外に作られ、満タンになれば新たに穴を掘った。
   訪れたほんの数年前まで、村は領主のような強い権力をもつ地主に支配されていた。地主は土地の所有者というより「村の所有者」であったから、農民はどんな無理も抵抗できずに従った。貴重な卵も、持って来いといわれれば地主の館まで持参しなければならなかった。1960年代はじめ、当時の国王は国の近代化の必要性を説き、農地改革を宣言して地主を村から退去させた。これは農民解放ともいうべきできごとであった。しかし、農民に与えられた農地は村の土地の3分の1ほどに過ぎなかったから、村民は相変わらず貧しかった。

パン焼き作業。羊やヤギの糞を燃料としていたの画像

パン焼き作業。
羊やヤギの糞を燃料としていた

   春と秋には、村の辺りを毎日幾組もの遊牧民の集団が通過した。隊列を組み沢山の羊やヤギを追い、時には村の休耕地にテントを張って宿営した。1930年頃から政府が進めてきた遊牧民弾圧と定住化政策によって、かつてイランの総人口の4分の1もいた遊牧民は次第に追いつめられた。落ちこぼれる遊牧民も増え、地主はこの遊牧民をリクルートして農民として定住させた。ポレノウ村の住民の多くはこの定住組であった。とはいえ、当時はまだ数十人、数百人の集団で移動する遊牧民の雄姿をみることができた。

オアシスの谷平野を横切る遊牧民の隊列の画像

オアシスの谷平野を横切る遊牧民の隊列

家財道具一式と鶏までもが一緒に移動したの画像 羊とヤギを移動させる遊牧民の画像

家財道具一式と鶏までもが一緒に移動した

羊とヤギを移動させる遊牧民

   村には電気や水道はなく、村民は暗くなると簡易ランプをつけ、村に1つある井戸で水を汲み家に運んだ。女性は15歳前後で結婚した。乏しい食事で沢山の子供を生み育てるため歳をとるのも早かった。子育て、台所仕事、洗濯に多くの時間を費やし、皆、母から娘へと伝えられた技術でじゅうたんを織った。栄養が悪く衛生状態もよくなかったから子供の死亡率は高かった。30歳のある農民の話では、子供は8人いたが、そのうち5人が死んだという。何で死んだかと聞くと、井戸に落ちたりコレラに罹ったり、いろいろだという。もっとも誰もがこれほど多く子供を亡くしている訳ではない。医者は20キロ離れた町にいるが、農民にとって治療代は大変高く、それでも医者にかからなければならないときには、貴重な小麦を袋に詰めこれを背負って出かけていった。

ジュウタンを織る女性の画像

ジュウタンを織る女性

   村には小学校があった。国王の近代化政策の一環で小さな小学校が建てられ、徴兵期間中の高卒の兵隊先生が1人やってきて子供を教えた。生徒は男子だけで女子は学校にやって来なかった。これは制度的な問題ではなく、村民も兵隊先生も女子の教育は不要だと考えていたからである。しかし本当のところは、女子が子供の頃から家の貴重な働き手であったということによる。水汲み、洗濯、弟や妹の子守、家畜の世話、7、8歳になればなんでもやった。10歳の子供でも羊やヤギの放牧の手助けぐらいはできた。家畜は毎朝広場に集められた。放牧は家畜をもつ農家の輪番だったが、これに当るのは2,3人の子供たちだった。当番の日には学校を休み、パン切れを布に包んで首に巻き一日中、家畜を追った。

むらの小学校の画像

むらの小学校

むらの井戸で水汲みをする少女の画像 羊やヤギの放牧をする子どもの画像

むらの井戸で水汲みをする少女

羊やヤギの放牧をする子ども

   村にも四季はあり、周囲の山に雪が積もり始めた12月半ば、調査を終えて村を離れた。その後、気にはなりながらも村を再び訪れることなく30年以上の長い年月がたった。しかし、村で暮らしたのが多感な20代だったこともあり、村のことは深く脳裏に焼きつきあまり褪せることもなかった。私にとってそれだけ強烈な時間であったということである。そして、六十の齢を超えようとしていた2005年の夏、再び村を訪れる機会を得た。

   州都シーラーズから北に向かって車を走らせた。40キロほどでオアシスを縦断するコル川に着く。川に架かる橋の手前で左折し幹線道路と分かれる。ここから畑の間を15キロも行けば集落がみえる。村は大きく変わり子供たちも壮年になっているはずである。私は車を走らせながら時の流れを冷静に計ろうとしていた。だが、村が近づき懐かしい山の風景が目の前に現れるや、ぼろをまとったあのときの子供たちがワーワーと裸足で飛び出してきそうな錯覚に襲われた。頭の中では時間はほとんど止まっていたのである。
   バイクに乗った青年がよそ者の到来を確認するため車に寄ってきた。もちろん私のことを知らない。子供たちも集まってきたが外国人に対する好奇心一色である。しかし、歓待の笑顔に包まれるまでにそれほど時間を要しなかった。見覚えのある顔が次から次へと握手を求めてきた。皆、間違いなく歳をとっており、当時の小学生はいい年のおじさんになっていた。時間はやはり動いており、はからずも浦島太郎の感慨に浸ることになった。ただ違うのは再会を喜んでくれる人がまだ沢山いたことであった。

写真左の少年(1972年)は写真右の右端のおじさんにの画像 写真左の少年(1972年)は写真右の右端のおじさんにの画像

写真左の少年(1972年)は
写真右の右端のおじさんに

   村人の住む集落に昔の面影はほとんどなかった。密集した日干しレンガの家々は焼きレンガを漆喰で固め塀で囲ったどっしりした家並みに変わっていた。電気も水道も電話も村に来ていた。ポータブルラジオはテレビに変わり、ロバはバイクに、また自動車に変わっていた。携帯電話を使うものもいた。子供はもう水汲みや放牧の仕事でこき使われることはなくなり、小学校では小ぎれいな制服を着た女の子たちが2人の先生に教わっていた。確かに村は豊かになっていた。

現在のむらの小学校の画像

現在のむらの小学校

   皆に別れを告げ、寄り道をしたため遅くなり8時を過ぎて50キロ離れた都市シーラーズのホテルにもどった。すると30歳半ば過ぎと思われる男がロビーで私を待っていた。村に住む父親からの電話で、私が村を訪ねたことを知りやってきたという。彼もまたポレノウ村で育ったのだが、私が住み込んでいたときはまだ幼少であったため、記憶はおぼろげであった。現在、医者として大学病院で働いているから自分ができることがあればなんでもする、と協力を申し出てくれた。彼もまた小学校のあの壊れかけた椅子に腰掛け、兵隊先生から教わったのだが、あの村から医者が生まれたことになんとも言えぬ感慨を覚えた。私は30年前の写真をアルバムにして日本からもっていっていたので、これをみせると、ページをめくりながらある一枚で彼の手が止まった。それは、泥にまみれて遊んでいた幼児を並ばせ撮った写真である。皆、ぼろを着て裸足でほこりにまみれて並んでいる。彼はしばらく考えていたが、「この左端が私だと思います」という。なるほどよく見れば似ている。そしてまたしばらく考えてつけ加えた。「私の一人おいて隣の子も今医者をしています。」 なんと、ぼろを着てはだしで駆け回っていた子供たち、あの小さな貧しい村の、設備も乏しい学校で、兵隊先生から二部授業で教わった子供たち、そこから2人のドクターが生まれた。私は胸が詰まって涙が出そうになった。

左の写真は1972年。左端と1人おいて隣の子どもが医者になった。の画像 右の写真 の左端の2人。の画像

左の写真は1972年。左端と1人おいて隣の子どもが医者になった

右の写真 の左端の2人。

   数日後、彼はこの地域の村々の統計が欲しいという私の願いに答えて、衛生局の責任者を紹介してくれた。200以上の村を統括する責任者は女性であった。用事を済ませた後、彼女は私に「先生、今回ポレノウ村にいらしてどんな印象を受けましたか」と質問した。私は自分が感動した気持ちを素直に表わし、あの貧しく教育も不十分な村から2人の医者が生まれたことにもっとも感動したと話した。すると彼女は「私もあの貧しい村に生まれました。ですから、村の衛生環境の改善のために働くのが私の使命と考えています」と語った。彼女もポレノウ村のほこりまみれの女の子だったのである。